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おすすめの中古車 アーカイブ

今日からブログを始めてみました。

こんにちは。


ここでは私の趣味であるクルマについてを中心に書いていくつもりです。


また、中古車情報などもあわせて紹介していく予定です。


ブログというものは見る側であっても自分が書く側になるとは思いもしませんでした。


いろんな方の意見を総合した結果、ブログを始めてみた次第です。


・・・どうぞよろしくお願い致します。


では、まずマツダの話からはじめたいと思います。


昭和35年の元旦、当時のマツダの恒次社長に西ドイツから一通の航空便が届きました。


差出人は西ドイツで機械関係の商社を経営するフォルスターと言い、東洋工業の先代社長松田重次郎と親交のあった人です。


ドイツ語でタイプされたその文面は、NSU社とバンケル博士が共同開発したロータリー・エンジンは画期的なものであり、これと技術提携して、実用化を図ってみてはどうか・・・


その気があれば仲介の労をとるとの親切な助言がしたためられていました。


「この話に乗ってみよう。」


・・・恒次社長の頭にひらめくものがありました。

ロータリー・エンジンの着想

ロータリー・エンジンの着想は古くからありました。


夢のエンジン、画期的なエンジンとして、世界中の自動車メーカーが注目しているものです。


このエンジンの実用化に成功すれば、東洋工業の技術は一挙に世間の信頼をかちとることができ、知名度もあがります。


その技術評価を武器に、とりあえずはレシプロ・エンジンの小型乗用車を売りまくります。


小型乗用車は中古車情報も多く、一般消費者に人気が高いのです。


後発メーカーのハンデはたちどころに解消し、総合自動車メーカーの道が拓けるでしょう。


昭和35年9月30日、恒次社長は西ドイツに飛びました。


東洋工業にとって諸刃の剣となるロータリー・エンジンとの取り組みはここから始まるのですが、そのドキュメンタリーは40年代のテーマにゆずらねばなりません。


ひところ『企業の寿命は30年』という話題が、よく人の口の端にのぼりました。


この場合の『寿命』とは企業存続の期間を指すものではなく、『業績好調の期間』を意味します。


この見解の確率性とか、立論の根拠については、わたしも知るところがありません。

萌え出ずる芽

東洋工業の山あり谷ありの社歴を見ると・・・


なぜか前回述べたような見解にも一理あるように思えてきます。


東洋工業が経営の危機に見舞われたのは昭和40年代の後半の時期です。


その危機を乗り越えたあとの同社が、旧に倍する業態を構築し、今や名実ともに総合自動車メーカーの企業展開を実演していることは大方の知るとおり・・・。


しかしここでの目的は、30年代の10年間にデビューしたニューモデルを中心に、合わせてその時代背景や企業動向、登場人物を及ぶかぎり検証することにあります。


・・・したがって40年代以後の事象については言及しないことを建て前としています。


いずれ相当の年月の経過を待って、あらためて40年代以後の昭和史にとり組んでみたいと思っています。


マツダ・ファミリアセダンがデビューしたのは39年10月のこと。


もうすぐそこまで、40年代の足音が聞こえてきたときです。


この年にデビユーしたニューモデルと言えば、4月のクラウンエイト、5月のスカイライン2000GT、6月の三菱デポネア、9月の日野コンテッサー300クーペがあります。


さすがに最近の中古車情報でこれらの車種の名前は出ませんね。


マツダ・ファミリアセダンは30年代最後を飾るモデルとして登場したことになります。

自動車業界から見る日本経済

昭和39年という年は、経済・社会の面でも特筆に価いする変革が見られた年です。


それはここまでの日本と、この年以後の日本の間に、太い線で仕切るほどの変貌があらわれたことを意味します。


自動車業界は経済・社会の動向に対して、最も敏感に反応する業種です。


その意味でも見逃せない変革の幾つかを、ここにとりあげておきたいと思います。


まず第一にあげたいのは、日本は4月1日から国際通貨基金(IMF)8条国に移行したことです。


この8条国への移行によって、日本は国際収支が悪くなっても為替取引を制限することができなくなり、円は世界の主要通貨とならぶ交換可能通貨となりました。


・・・さらに4月28日、経済協力開発機構(OECD)に正式に加盟。


日本は本格的な開放経済体制にはいりました。


このIMF8条国への移行とOECD正式加盟とにより、日本は国際経済社会に仲間入りをしたのです。


思えばこれが経済大国へ発展する第一歩の行動でした。


このころから少しずつ、中古車の情報なども増えて経済が活発化していくことになります。

自動車依存度の増大

9月5日、名神高速道路の愛知県一宮~岐阜県関ヶ原間34㎞と、兵庫県尼崎~西宮間7㎞の開通式が行なわれました。


これで名神高速道路は全区間の96%、約181㎞が完成。


実質的に全通のはこびとなりました。


中京と阪神の両経済圏は日本最初のハイウェイによって結ばれ、両経済圏の時間的距離は約半分に短縮されました。


これにより交通、物流の自動車依存度が飛躍的に増大したのはもちろん、同時に中古車情報の多い国産車の弱点とされた高速性能の向上に貢献しました。


10月1日、東海道新幹線開業。


東京~新大阪間を4時間で結ぶ大動脈が完成。


1年後には3時間10分に短縮されました。


これにより、東京~大阪間のビジネス旅行は容易となり、経済活動に大きな変化をもたらしました。


このできごとは、歴史的には日本の政治、経済、文化への影響度において、驚天動地の形容に価いする価値ある変革でした。


ただその渦中に生きる当世代の人々が、文明の恩恵に慣れすぎて、新鮮なおどろきを感じなくなってはいましたが・・・。


国際化の洗礼

10月10日、第18回オリンピック東京大会が開催されました。


アジアで開かれた最初の大会で、参加94ヵ国、世界の選手5541人を数えます。


日本全体がオリンピック景気に湧いたのです。


国立競技場、武道館、駒沢競技場、国立室内競技場が建設されました。


また前述の、名神高速道路、東海道新幹線などのほか、東京モノレール、首都高速道路、地下鉄各線、数多くのホテルの建設が進められ・・・


これらは東京オリンピックで来日した数万人の外国人の眼に、近代国家日本の姿として印象づけられました。


日本の国際的地位の復活は、この東京オリンピックを頂点として実現し、これを境に、日本は経済大国への進路をひた走ることになります。


国情はまさに一変しました。


変化の様相をひと言で表現するなら、日本の社会全体が、みずから国際化の洗礼を受けて立ったといえるでしょうか。


中古車情報などを扱う自動車業界とて例外ではありません。


インターナショナル・モーターショー

この年9月26日~10月9日の会期で開催された第11回モーターショーは、前回までの『全日本自動車ショー』の名称を廃し、『東京モーターショー』と改称しました。


これは開催地の都市名を冠するヨーロッパ先進国のそれと歩調を揃えることにより、国際的な知名度の滲透を図ったものです。


モーターショーの変容はそればかりではありません。


この11回からごく一部ですが、外国車の出品参加が実現しました。


トライアンフ(英)、ジープ・ワゴニア(米)、ハフリンガー(オーストリア)の各モデルが中古車情報の多い日本車と並んで展示され、まがりなりにもインターナショナル・モーターショーへの第一歩をしるしました。


この年のモーターショーを彩った新しい芽はほかにもあります。


素人眼にはいつ見てもただ華やかで、会場内は通勤ラッシュ同然の人垣に埋まるショー風景と映るでしょう。


しかし経済・社会の動向や時代の風潮を踏まえて観察すれば・・・


やはりそこには世相と連動して、きたるべき時代に対応しようとする自動車業界の姿が、浮き彫りにされていることに気づくはずです。


多くのバリエーション

芽はやがて若木に育ち、時を経て空を圧する大木に成長します。


すでに通り過ぎた年代だけに理解も早いと思いますが、芽を30年代、若木を40年代、大木を50年代に置き替えてみれば興味もふくらみます。


そこで、さてどんな芽がこのショーに出ていたのでしょうか。


・・・次にそれを見ることにしましょう。


俗に3ナンバー車、道路運送車両法に言う普通車の国産モデルが、このショーに初めて顔を揃えました。


セドリック・スペシャル(2825㏄)、クラウン・エイト(2599㏄)、グランド・グロリア(2494㏄)などで、これらは言うまでもなく、国際化本番に備える国産メーカー側の、フルライン整備の一端と見てとれます。


次に中古車の検索サイトなどでも人気の高い国産乗用車と言えば・・・


30年代にあってはデラックスとスタンダードの2本立てが決まり相場で、バリエーションはゼロ、まれに4ドア、2ドアの両立てが見られた程度です。


それがこのショーに至ってがぜん様変わりの観を呈し、クーペ、GT、コンバーチブル、スポーツと銘打つ多くのバリエーションを登場させています。


マツダ・ファミリアのバックグラウンド

ダットサン・クーペ(1595㏄、翌年ニッサン・シルビアの名で市販開始)、いすゞベレット・1500クーペ、ベレット・1600GT、トヨタパブリカ・コンバーチブル(697㏄)、ホンダスポーツ600・・・


それに前年発売のダットサン・フェアレディー500など、これらは間近に迫る大衆モータリゼーションの到来と、それにともなうオーナーの個性化志向に備えるものでした。


富士山の秀麗な山容は今も昔も変わりませんが・・・


人が住み、人と人とが織りなす下界のさまは、日に月に変貌してとどまるところがありません。


移りゆく世の姿を変化と見るか、進化と呼ぶかは人によって意見もあるでしょう。


それはそれとして、動いてやまない歴史のなかで捉えた昭和39年の日本の諸相が、ようやく出番を迎えたマツダ・ファミリアのバックグラウンドです。


このときにはまだ中古車情報も少ないものでした。


昭和50年に日産の九州工場(福岡県刈田町)が建設されるまで、広島の東洋工業は日本の最南に位置する自動車工場でした。


首都圏に最も遠い自動車工場でありながら、業界内では最もニュースの焦点に登場するめぐり合わせを持つ工場であったとも言えます。

広島の星

思いをめぐらせば昭和40年代の後半からの10年。


オイルショックがもたらしたロータリー・エンジン車への不評に端を発して、東洋工業の経営基盤は揺れに揺れました。


その危機を乗り切る経営策の蹉跣、住友銀行の救済乗り出しとフォード社との資本提携など・・・


松田恒次社長亡きあとの東洋工業は存亡の剣が峯を歩きました。


全社一丸となっての再建の努力が実を結び、暗雲は去りました。


今は社名を『マツダ』に改め、遠くアメリカにも工場進出する発展ぶりで、Z旗をかかげた歳月のあとは、みじんも残っていません。


東洋工業が現社名のマツダ㈱に改称したのは昭和59年5月1日のことです。


大正9年1月に東洋コルク工業として発足、昭和2年、社名からコルクの文字を削って東洋工業と改称。


それから57年の星霜を経て現社名のマツダとなります。


いまではマツダの乗用車の中古車情報も数多いですね。


マツダの乗用車第1号は昭和35年5月に発売した軽規格モデルのマツダR360クーペでした。


"本格的なファミリーカー"

第2弾はやはり軽規格のマツダキャロル360。


これは37年2月に発売されました。


第3弾が同年11月発売のマツダキャロル600で、586㏄のエンジンを積みますが、ボディスタイルは同名360と同じです。


ただし長さと幅をわずかに拡大しています。


このあとにデビューしたのが今回のテーマにとりあげたマツダ・ファミリアセダンで、このモデルは39年10月1日に発売されました。


ファミリアとはイタリア語で『家族』を意味します。


大衆需要を啓発するのに有効なネーミングと判断しての命名であったかと思いますが・・・


今と違って当時の家族持ちの大衆層には、乗用車を購入する余裕はありません。


当時は今ほど中古車情報もなかったのです。


しかしマツダのマーケティング当事者は余程『家族』にこだわっていたようで・・・


37年2月発売のキャロル360あたりから、さかんに『本格的なファミリーカー』をキャッチフレーズに使っていたのを思い出します。


ファミリアセダンの発表会は、昭和39年9月11日東京のヒルトンホテル(現キャピトル東急ホテル)に多くの報道関係者を集めて開催されました。


挨拶に立った松田恒次社長は・・・


『当社は今般本格的なファミリーカーとして、800㏄のセダンを発売する運びとなりました。


年末には月産台数3500台を実現できるものと考えております』


話術に巧みな恒次社長は、同社の発展計画として策定したピラミッド・ビジョンを引用しながら、ファミリアセダンの、同社商品系列における位置づけにも言及。


自信のほどを印象づけました。


中古車検索サイトなどを見るとよくわかりますが、今でも人気がダントツで高いのはやはりファミリーカーです。


この発表を報道する翌日の新聞のなかから、毎日新聞の記事を参考までに掲げておきます。


昭和39年9月12日付(毎日新聞)です。


・・・


"加速、経済性に特色"


"東洋工業でファミリア800発表"


東洋工業(松田恒次社長)は11日、小型乗用車ファミリア800を発表。


オーナードライバーをおもな対象とするファミリーカーで、エンジンは総アルミ合金、水冷4気筒800㏄、42馬力で最高時速は115キロ。


・・・

新しいくるまの発表

今日も前回からの続きで、以下に当時の毎日新聞の記事を紹介します。


・・・


「最高速度での長時間運転が可能のほか、加速性、経済性(リッター当たり舗装平坦路で24キロ)、居住性などにもすぐれている。


月産3500台で800台程度を輪出に回す予定。


価格は北海道を除く全国統一価格でスタンダード48万8000円。


デラックスは6万円高の54万8000円。


10月1日から全国一斉に発売する。」


・・・


発表の大要は以上につきます。


当時から今まで、やはり中古車情報が多く人気が高いのはファミリーカーなのです。


余談ですが、恒次社長は高松宮とも親しい間柄にあります。


生前の殿下は第1回のときから東京モーターショーの総裁をつとめられたほどの自動車好きでもあります。


それで発表会のあと、お邸に回って高松宮にも試乗してもらい、批評を乞いました。


ピカピカのニューモデル

広い邸内を1周されて殿下は


『エンジンの音は静かだし、室内は広いな。


私は批判精神旺盛だから、なんとかケチをつけてやろうと思ったが、これではケチもつけられないよ』


・・・と言って大笑いされたといいます。


ファミリアセダンが大衆の前に姿をあらわしたのは、新聞発表から2週間後に開幕した第11回東京モーターショーの会場です。


世間一般に、大衆モータリゼーション開花寸前のムードが横溢しています。


それだけにモーターショーの人気は高く、特別入場料500円の初日(2日目からは100円)ですら2万6000人が入場したといいますから、もって人気のほどもうかがわれます。


ショーの会場では、どの展示モデルにも観客がむらがるものです。


中古車情報を見てもわかることですが、消費者はやはり少しでも新しいクルマが欲しいものなのです。


・・・とりわけピカピカのニューモデルには、近寄れないほどの人垣ができます。

ファミリアセダンの発表

ファミリアセダンのドザインやスタイルには、とりたてて言うほどの新味も特長もないですが・・・


人の心を落ちつかせるようなムードがあります。


それに初めてお目見得するニューモデルの強味というべきか・・・


あるいは買える、買えないはともかく『本格的なファミリーカー』のキャッチフレーズが、自分向けに用意されたと思うのか・・・


スバル 中古車も多いファミリアセダンの乗るターンテーブルの周りには、終日絶えることのない人垣ができました。


主な仕様と寸法拭次のとおりです。


長×幅×高(㎜) 3765×1465×1385


乗車定員 5名


車両重量 740㎏


連続最高速度 115㎞/h


エンジン形式 水冷、直4、4サイクル


総排気量 782㏄


最高出力 42ps/6000rpm


最大トルク 6.0㎏・m/3200rpm


トランスミッション 前進4段、シンクロメッシュ


・・・この発表内容で変わっていたのは、通常なら最高速度ですませるところを、連続最高速度とし、連続の文字に力点を置いていたことです。

ファミリーカーとしての要件は・・・

当時、リッター当たり24キロの燃費も同クラス他車に比べて優秀でした。


足まわりのメンテナンスフリーの実施なども、ファミリーカーとしての要件をよく配慮したものと言うことができるでしょう。


ファミリアセダンは発売早々からよく売れました。


中古車もよく出回っていましたね。


12月には恒次社長の公約を500台上回る4000台の販売を達成、明けて40年代にも順調な売れ行きを重ねていきました。


もっともそのかげには39年11月に追加設定したファミリア・2ドアスタンダード、同じく2ドアスペシャル(シリーズの最低価格車)など、マーケティング戦略の成功も寄与しています。


マツダ・ファミリアの物語はこれで終わります。


昭和62年末の時点で、マツダブランドの乗用車は車格の上から順にルーチェ、サバンナRXi7、カペラ、コスモ、エチュード、ファミリアの6モデルがありました。


ほかにフォードブランドのフェスティバ、レーザー、テルスターを生産しています。


生き残りのための戦略的思惑


企業グループは日本のメーカー同士だけでなく、とくにデトロイトの3社との間にも企業間提携の形で進められています。


さらにもうひとつ11社共存を可能にした条件として、日本の自動車メーカーが激しい競争体質の中でその日本的合理化を推進して一定の限度内ではありますが・・・


スケール・メリットの分岐点を切下げることに成功したことで、年産40万~50万台規模の自動車メーカーの存続が保証されるに至ったことも指摘できます。


これには日本の自動車メーカーの部品外注依存率が高く、しかも系列化の傾向が強いとはいえ・・・


高品質の部品を低コストでかなり広汎に購入できる裾野の広い優れた部品メーカーが多数存在したことが大きく貢献しています。


問題は今後も、スバル 中古車などを含む日本の自動車産業の競争的体質と11社共存体制が今後も持続可能かということです。


これには、国内の過当競争によって脱落するメーカーが出るかどうかということ・・・


そして、ドル箱の対米輸出がたとえ自主規制であっても今までよりも台数的に増えるかどうかということが、かかわりをもつことはいうまでもありません。


・・・このように自主規制問題は、日米各メーカーの生き残りとそのためのいろいろな戦略的思惑がこれにからんだ形で、今後も推移していくことになるでしょう。


中古車情報が増えはじめて

対米輸出自主規制の延長問題は、伝えられるところでは、85年度についてとくにレーガン政権として自主規制の延長は日本政府に求めないとの意向表明がありました。


以来85年3月まで業界の自主性に委ね、とくに台数規制は続けたいとの案も通産省でかなり真剣に論議されました。


・・・しかし結果的には、中古車情報が増えはじめた84年の185万台から230万台へと台数枠を拡大する形で自主規制が延長されることになりました。


このことは自主規制問題が、日米自動車産業の競争関係という経済問題の枠を越えて、外交、防衛、貿易などの政治的次元の問題として理解されていることのあらわれです。


規制をきめる一つの大きな理由として、日米間の貿易収支不均衡の拡大があげられているのも、問題の政治的性格をうかがわせます。


その意味では対米乗用車輸出自主規制の延長は、現在のデトロイトの好決算という状況のもとでその根拠を失いつつあるにもかかわらず、日米外交関係・・・


とくに貿易摩擦という政治的要請がつねに優先しているといえるのであり、その要請の前に業界がこれに同調せざるをえなかったというのが真相でしょう。


スバルの中古車に乗って


今後この自主規制問題は、これ以降のアメリカの景気や金利動向、エネルギー事情もからんだ自動車市場動向が、どの程度まで好調を持続し・・・


そして、デトロイトの体質転換と競争力の回復がそれによって完全に実現するかどうかをにらみながら・・・


一方では、今後のドル高やアメリカの財政赤字と日米間の貿易摩擦をにらんだ極めて政治的な判断に左右されつつ対処されていくことになるでしょう。


この場合、デトロイト再建の鍵は、やはり大型・中型車中心の、スバル 中古車などを含む日本車と差別された高収益構造が何らかの形で再建可能かどうかということ。


そして、技術革新や設備近代化と生産技術の向上がマッチして高品質と高労働生産性を実現できるかどうかにかかっています。


これらの条件が簡単に実現しないということになれば、まさに政治的プレッシャーがらみの再延長問題もしくは日本のメーカーが最も恐れるローカル・コンテント法問題が浮上する可能性があります。


また自主規制の延長が撤廃されるとしても日本の総輸出の21.7%を占める自動車をめぐる貿易摩擦は一朝一夕になくなりません。


市場シェア固定論


現在進行しつつある対米現地生産も、5社全部の生産が出揃えば3年~4年後には現地生産車だけで年間100万台程度になると思われます。


この点に関連しても部品の現地調達率との関連でローカル・コンテント法が浮上する可能性が強いのです。


自主規制がスタートして以来、国際的にみて日本の自動車産業は、一種の市場シェア固定論の枠に次第にはめ込まれてきています。


この傾向が蔓延すれば世界経済のダイナミズム喪失に結びつく保守主義にはずみをつけかねないのです。


このようなシェア固定論と保護主義は、巡りめぐって中古車の情報の増加、自動車産業のイノベーションや体質改善による活性化の芽をつんでしまうことは事実です。


しかし現実に起きている自動車生産の肇調整に伴う失業その他の社会的摩擦を考えると、何らかの利害調整はどうしても政治の次元に持ち込まれることになります。


このような状況のもとに自主規制問題は、日米自動車産業の再編成問題もからめた競争関係の展開と政治的次元の問題との間を揺れ動きながら、今後も推移していくでしょう。

自動車産業とライフサイクル

今後の日本自動車産業の活路としてすでに実行段階に入った海外進出やスバル 中古車の強化、国際提携の具体的実績がどうでるか・・・


これが、重要な試金石となるはずです。


ある教授は、その最後の著作『インダストリアル・ルネッサンス』において、自動車産業は単なる成熟産業ではなく脱成熟産業への道を今や踏みだしつつあることを明快に指摘しました。


・・・彼によれば、すべての産業にはその技術の発展や変化と関連したライフサイクルというものがあります。


つまり、幼稚段階から成長段階に入りやがて成熟段階に入って、成熟段階を過ぎると衰退期が訪れるのです。


一般に技術革新には、製品そのものの特性や製法まで根本的に変えてしまうラジカルな製品技術の革新と、一定の技術体系・・・


例えば標準化による大量生産技術のようなものが確立してしまって、その技術体系のもとで絶えず追加的につみ上げられて能率や品質の向上を促進する工程技術の革新があります。

新しいライフサイクル

産業ライフサイクルを変えるような大きな影響力をもつのは、いうまでもなくラジカルな製品技術の革新ですが、真空管がトランジスタに変り、さらに半導体や集薔路が出現したこと・・・


現在でいうとセラミックスや光ファイバー、遺伝子工学の出現のような・・・


この種の技術革新は、いつもどのような形で出現し、実用化されるか簡単に予測できないのです。


それは突如として出現することが多いです。


そして、いつの間にか中古車の検索にある自動車にも使われるのです。


それに比べて工程の技術の革新は、これがつみ上げられていくことによってその産業の成長を促進するとともに、成熟段階に入ったその産業の寿命を延長する作用をもっています。


しかし工程技術の革新も、一定の大量生産技術体系のもとで製品の設計やコンセプトにさしたる変化のないまま量産効果によるコスト・ダウンに貢献するだけであるのなら、その産業の成熟期を引きのばすだけの効果しかもたないのですが・・・


周辺技術の進歩を取りいれ、かつこれに刺激を与え製品コンセプトに重要な変化や多様性を実現する場合には、単に成熟期を引きのばすだけでなく、新しいライフサイクルを生み出すことができます。

製品技術革新の将来

単なるコスト・ダウンで成熟期を引きのばすだけでなく・・・


脱成熟化へ向けての新しいライフサイクルが新技術を吸収した工程技術の革新によって創出可能となります。


いつ起こるか予測できない、製品そのものの特性や製法までいっきょに変えてしまうような製品技術のラジカルな革新が生じなくても・・・


工程技術の革新も、そのありようによって産業の脱成熟化を段階的にもたらすことができます。


・・・以上のような仮説を自動車産業にあてはめてみると、ガソリン・エンジン車以外の新動力。


例えばガス・タービン車、電気自動車、水素自動車のようなものは、実験段階においてかなり成功していても、完全にガソリン・エンジン車にとって代るのはまだいつのことか分らないのです。


スバル 中古車など、自動車の心臓部にあたる動力装置そのものの製品技術革新の将来はまだ不確実です。


一方の工程技術の革新は、ヘンリー・フォードが移動組立法による大量生産方式を確立して以来連綿とつみ重ねられてきましたが・・・


それはラインの同期化やスピード・アップによる生産能率の向上=量産効果とコスト・ダウンを志向するものでした。

自動車産業の成熟期

プレス加工技術の発展によるモデル・チェンジの定期化やシャシーの共通化、エンジン・メカニズムの改良・・・


そして、トランスミッションやサスペンションの発達などがみられましたが、これらはいずれも工程技術の革新が中心となって進められました。


そして全体としてこれらの工程技術革新は成熟化した自動車技術と自動車需要の持続的な発展に効果を発揮し・・・


いうなれば自動車産業の成熟期を引きのばす役割を演じてきたといってよいでしょう。


ところが、燃費規制(ある意味では公害規制も入るかもしれない)やエネルギー問題が一つの引金となって、自動車の製品設計のあり方や生産技術に大きな変化がおこり・・・


同時にこのような技術上のニーズにこたえるエレクトロニクスや新材料の技術の活用が急速に進みます。


さらにはFFのような自動車の駆動装置やエンジン設計の革新、軽量化と性能向上のためのCAD・CAMをつかった設計技術の進歩、さらには生産工程における自動化やロボット化の急速な進展がみられるに及び・・・


中古車情報が増えた現在、自動車産業における工程技術の革新は、単なる成熟期を引きのばす役割を演じるだけでなく、脱成熟化への歩みを切り拓く役割を演じつつあるのです。

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