ピカピカのニューモデル

広い邸内を1周されて殿下は


『エンジンの音は静かだし、室内は広いな。


私は批判精神旺盛だから、なんとかケチをつけてやろうと思ったが、これではケチもつけられないよ』


・・・と言って大笑いされたといいます。


ファミリアセダンが大衆の前に姿をあらわしたのは、新聞発表から2週間後に開幕した第11回東京モーターショーの会場です。


世間一般に、大衆モータリゼーション開花寸前のムードが横溢しています。


それだけにモーターショーの人気は高く、特別入場料500円の初日(2日目からは100円)ですら2万6000人が入場したといいますから、もって人気のほどもうかがわれます。


ショーの会場では、どの展示モデルにも観客がむらがるものです。


中古車情報を見てもわかることですが、消費者はやはり少しでも新しいクルマが欲しいものなのです。


・・・とりわけピカピカのニューモデルには、近寄れないほどの人垣ができます。

新しいくるまの発表

今日も前回からの続きで、以下に当時の毎日新聞の記事を紹介します。


・・・


「最高速度での長時間運転が可能のほか、加速性、経済性(リッター当たり舗装平坦路で24キロ)、居住性などにもすぐれている。


月産3500台で800台程度を輪出に回す予定。


価格は北海道を除く全国統一価格でスタンダード48万8000円。


デラックスは6万円高の54万8000円。


10月1日から全国一斉に発売する。」


・・・


発表の大要は以上につきます。


当時から今まで、やはり中古車情報が多く人気が高いのはファミリーカーなのです。


余談ですが、恒次社長は高松宮とも親しい間柄にあります。


生前の殿下は第1回のときから東京モーターショーの総裁をつとめられたほどの自動車好きでもあります。


それで発表会のあと、お邸に回って高松宮にも試乗してもらい、批評を乞いました。


ファミリアセダンの発表会は、昭和39年9月11日東京のヒルトンホテル(現キャピトル東急ホテル)に多くの報道関係者を集めて開催されました。


挨拶に立った松田恒次社長は・・・


『当社は今般本格的なファミリーカーとして、800㏄のセダンを発売する運びとなりました。


年末には月産台数3500台を実現できるものと考えております』


話術に巧みな恒次社長は、同社の発展計画として策定したピラミッド・ビジョンを引用しながら、ファミリアセダンの、同社商品系列における位置づけにも言及。


自信のほどを印象づけました。


中古車検索サイトなどを見るとよくわかりますが、今でも人気がダントツで高いのはやはりファミリーカーです。


この発表を報道する翌日の新聞のなかから、毎日新聞の記事を参考までに掲げておきます。


昭和39年9月12日付(毎日新聞)です。


・・・


"加速、経済性に特色"


"東洋工業でファミリア800発表"


東洋工業(松田恒次社長)は11日、小型乗用車ファミリア800を発表。


オーナードライバーをおもな対象とするファミリーカーで、エンジンは総アルミ合金、水冷4気筒800㏄、42馬力で最高時速は115キロ。


・・・

"本格的なファミリーカー"

第2弾はやはり軽規格のマツダキャロル360。


これは37年2月に発売されました。


第3弾が同年11月発売のマツダキャロル600で、586㏄のエンジンを積みますが、ボディスタイルは同名360と同じです。


ただし長さと幅をわずかに拡大しています。


このあとにデビューしたのが今回のテーマにとりあげたマツダ・ファミリアセダンで、このモデルは39年10月1日に発売されました。


ファミリアとはイタリア語で『家族』を意味します。


大衆需要を啓発するのに有効なネーミングと判断しての命名であったかと思いますが・・・


今と違って当時の家族持ちの大衆層には、乗用車を購入する余裕はありません。


当時は今ほど中古車情報もなかったのです。


しかしマツダのマーケティング当事者は余程『家族』にこだわっていたようで・・・


37年2月発売のキャロル360あたりから、さかんに『本格的なファミリーカー』をキャッチフレーズに使っていたのを思い出します。


広島の星

思いをめぐらせば昭和40年代の後半からの10年。


オイルショックがもたらしたロータリー・エンジン車への不評に端を発して、東洋工業の経営基盤は揺れに揺れました。


その危機を乗り切る経営策の蹉跣、住友銀行の救済乗り出しとフォード社との資本提携など・・・


松田恒次社長亡きあとの東洋工業は存亡の剣が峯を歩きました。


全社一丸となっての再建の努力が実を結び、暗雲は去りました。


今は社名を『マツダ』に改め、遠くアメリカにも工場進出する発展ぶりで、Z旗をかかげた歳月のあとは、みじんも残っていません。


東洋工業が現社名のマツダ㈱に改称したのは昭和59年5月1日のことです。


大正9年1月に東洋コルク工業として発足、昭和2年、社名からコルクの文字を削って東洋工業と改称。


それから57年の星霜を経て現社名のマツダとなります。


いまではマツダの乗用車の中古車情報も数多いですね。


マツダの乗用車第1号は昭和35年5月に発売した軽規格モデルのマツダR360クーペでした。


マツダ・ファミリアのバックグラウンド

ダットサン・クーペ(1595㏄、翌年ニッサン・シルビアの名で市販開始)、いすゞベレット・1500クーペ、ベレット・1600GT、トヨタパブリカ・コンバーチブル(697㏄)、ホンダスポーツ600・・・


それに前年発売のダットサン・フェアレディー500など、これらは間近に迫る大衆モータリゼーションの到来と、それにともなうオーナーの個性化志向に備えるものでした。


富士山の秀麗な山容は今も昔も変わりませんが・・・


人が住み、人と人とが織りなす下界のさまは、日に月に変貌してとどまるところがありません。


移りゆく世の姿を変化と見るか、進化と呼ぶかは人によって意見もあるでしょう。


それはそれとして、動いてやまない歴史のなかで捉えた昭和39年の日本の諸相が、ようやく出番を迎えたマツダ・ファミリアのバックグラウンドです。


このときにはまだ中古車情報も少ないものでした。


昭和50年に日産の九州工場(福岡県刈田町)が建設されるまで、広島の東洋工業は日本の最南に位置する自動車工場でした。


首都圏に最も遠い自動車工場でありながら、業界内では最もニュースの焦点に登場するめぐり合わせを持つ工場であったとも言えます。

多くのバリエーション

芽はやがて若木に育ち、時を経て空を圧する大木に成長します。


すでに通り過ぎた年代だけに理解も早いと思いますが、芽を30年代、若木を40年代、大木を50年代に置き替えてみれば興味もふくらみます。


そこで、さてどんな芽がこのショーに出ていたのでしょうか。


・・・次にそれを見ることにしましょう。


俗に3ナンバー車、道路運送車両法に言う普通車の国産モデルが、このショーに初めて顔を揃えました。


セドリック・スペシャル(2825㏄)、クラウン・エイト(2599㏄)、グランド・グロリア(2494㏄)などで、これらは言うまでもなく、国際化本番に備える国産メーカー側の、フルライン整備の一端と見てとれます。


次に中古車の検索サイトなどでも人気の高い国産乗用車と言えば・・・


30年代にあってはデラックスとスタンダードの2本立てが決まり相場で、バリエーションはゼロ、まれに4ドア、2ドアの両立てが見られた程度です。


それがこのショーに至ってがぜん様変わりの観を呈し、クーペ、GT、コンバーチブル、スポーツと銘打つ多くのバリエーションを登場させています。


インターナショナル・モーターショー

この年9月26日~10月9日の会期で開催された第11回モーターショーは、前回までの『全日本自動車ショー』の名称を廃し、『東京モーターショー』と改称しました。


これは開催地の都市名を冠するヨーロッパ先進国のそれと歩調を揃えることにより、国際的な知名度の滲透を図ったものです。


モーターショーの変容はそればかりではありません。


この11回からごく一部ですが、外国車の出品参加が実現しました。


トライアンフ(英)、ジープ・ワゴニア(米)、ハフリンガー(オーストリア)の各モデルが中古車情報の多い日本車と並んで展示され、まがりなりにもインターナショナル・モーターショーへの第一歩をしるしました。


この年のモーターショーを彩った新しい芽はほかにもあります。


素人眼にはいつ見てもただ華やかで、会場内は通勤ラッシュ同然の人垣に埋まるショー風景と映るでしょう。


しかし経済・社会の動向や時代の風潮を踏まえて観察すれば・・・


やはりそこには世相と連動して、きたるべき時代に対応しようとする自動車業界の姿が、浮き彫りにされていることに気づくはずです。


国際化の洗礼

10月10日、第18回オリンピック東京大会が開催されました。


アジアで開かれた最初の大会で、参加94ヵ国、世界の選手5541人を数えます。


日本全体がオリンピック景気に湧いたのです。


国立競技場、武道館、駒沢競技場、国立室内競技場が建設されました。


また前述の、名神高速道路、東海道新幹線などのほか、東京モノレール、首都高速道路、地下鉄各線、数多くのホテルの建設が進められ・・・


これらは東京オリンピックで来日した数万人の外国人の眼に、近代国家日本の姿として印象づけられました。


日本の国際的地位の復活は、この東京オリンピックを頂点として実現し、これを境に、日本は経済大国への進路をひた走ることになります。


国情はまさに一変しました。


変化の様相をひと言で表現するなら、日本の社会全体が、みずから国際化の洗礼を受けて立ったといえるでしょうか。


中古車情報などを扱う自動車業界とて例外ではありません。


自動車依存度の増大

9月5日、名神高速道路の愛知県一宮~岐阜県関ヶ原間34㎞と、兵庫県尼崎~西宮間7㎞の開通式が行なわれました。


これで名神高速道路は全区間の96%、約181㎞が完成。


実質的に全通のはこびとなりました。


中京と阪神の両経済圏は日本最初のハイウェイによって結ばれ、両経済圏の時間的距離は約半分に短縮されました。


これにより交通、物流の自動車依存度が飛躍的に増大したのはもちろん、同時に中古車情報の多い国産車の弱点とされた高速性能の向上に貢献しました。


10月1日、東海道新幹線開業。


東京~新大阪間を4時間で結ぶ大動脈が完成。


1年後には3時間10分に短縮されました。


これにより、東京~大阪間のビジネス旅行は容易となり、経済活動に大きな変化をもたらしました。


このできごとは、歴史的には日本の政治、経済、文化への影響度において、驚天動地の形容に価いする価値ある変革でした。


ただその渦中に生きる当世代の人々が、文明の恩恵に慣れすぎて、新鮮なおどろきを感じなくなってはいましたが・・・。